本日の長文
xBBS No.7952 のネタだけど,長くなるのでこっちに (^-^;
「合理的」という基準は人それぞれ違っている。それが私の絶対前提ですね。「合理的」とは「理に適っている,道理に基づいている」という意味であって, 「誰がやっても同じ結果になる」という意味なので, そこで「合理的」って言葉を再定義するのでは,もはや議論になりません.
# 「“常識”の定義は人それぞれ」っていう文をどう思いますか?
「主観」は人それぞれで,人に知られずにそれを変更できます. よって,人が何か反論してきた場合,前提を変えてしまう事で, 容易にその反論をかわす事ができます. つまりいかなる反論も「主観」による意見を打ち破る事ができません. こういう意見は「反証不能」といって,科学的理論とはみなされません. なぜなら,全ての思考をそこで停止させてしまうからで, そもそも論議する意味もなくしてしまうからです.
# そこで「論議には意味が無い」系の発言をするくらいなら,
# 会話に参加しない方がよろしい,とは No.7944 で書いたね.ひとの内的なことは結局、当人の主観で測るしかないのだし。自分が何を選択するのか,それを決めるのは確かに「主観」ですが, 何を選択したのかを他者に表明する場合,他者から見ればそれは外的な物とみなせます. そして,規則性を持たずに変化するものを使って問題解決の結論を出すことはできないように, あてにならない「主観」とやらに基づく発言は,論議の場には不適合です.
思うに,「合理性」というのはある意味でとても冷酷なもので, 感情的にどんなにそうあってほしいものであっても, 合理性に基づいた思考からは簡単に排除されるものも多く, この事から「合理的な思考」==「冷淡な思考」というような見方も多いようです. よく「理系的な発想」といわれるのは, こういう「感情や期待を排した冷徹な発想」であることが多いようで, いくらかの人々は,この冷酷さに耐えられず, 感情の逃げ道としてのある程度の不確定さを求める傾向にあるようです. ダーウィンの進化論やメイナード=スミスのゲーム理論, あるいはドーキンスの利己的遺伝子論などの, 論理性を極限まで追求した意見に, 必ず宗教論やラマルク主義論などの「人間の活躍の余地を残した理論」 を以って反論する人間が多発するのも,前述の通り, 純粋に理論のみで必然的な解答を得る事に対する自由性の少なさに耐え切れなかった者の抵抗の表現ということも含まれるのでしょう.