ふと思ったことを書いてみるコーナー.
人が何かを認識する時って,必ずその何かを定義付けして, 他の似たものと区別する事で「認識」とするんではないかと思ってるんだけど, 意外にこの「定義付け」を無意識にすら行なわずに何かを認識したと考える人が多いような気がする. この「認識」という行為に対する「定義」は,間違っているんだろうか? ある物,場所,現象,性質を理解するためには, それが他とどう違うかを理解する事が必須となるのではないんだろうか? AとBが区別できないなら,BはAであるわけだから, そこにはAしか存在しないと言えるのではないだろうか? であれば,AとBを隔てる何かを明示的あるいは暗黙に定義していないはずはないのではないか? 《否定の連続》(ぉ
別題. 「無償の奉仕が美しい事だとされるのは,誰もそれをやりたがらないから」ってのと, 「みんなのやりたがらない事をやるのは,美しい事である」ってのは, 必ずしも一致しないんじゃないかしらん.
別題. 他人の信じている事を否定するのは,その相手自身を否定する事であるから, 必ず慎重にやらねばならない... ってのは常々考えている事ではあるんだけど, 相手が宗教的に盲信していたりすると厄介で, この場合はどうやったらいいんだろうねぇ... 感情的な揺さ振りをかけると一時的に考えを変えたりするのかもしれないけど, きちんと理由あっての事でない(それが「宗教的」の定義としておく)から, きっとまた理由なく考えが変わったりするんだろうね. あー,理屈の通じない相手に対する説得なんて,したくもない... どうすると自分にとって有利であるかを論理的に思考できない相手とかねー.
別題. 自分は刹那的に生きて快楽を求めているんだけどね. (求めてる割には快楽が少ない気もするが(笑)) アタマ悪いと将棋でも3手とか4手とかしか読めないわけで, まして不確定要素のカタマリであるような「人生」や「生活」など, とても読めたもんじゃないわけなんだけど. それでも自分の行動に何らかの理由付けが欲しくなったりしてるわけで, さらに個人的な指向としてその理由ってのは可能な限り合理的であってほしいわけで, アタマ悪いせいで先読みができず思慮の浅い行動を取った時に, 後付けで合理的(と自分が思う的)な理由付けを行なったりして, そのギャップがあまりに激しいと自己嫌悪に陥ったりするわけで.
別題. 「たとえ殺されても~~だけはしない」とかってコダワリがある人って, はたして存在するんだろーか. あたしは「たとえ殺されるとしても自殺はしない」とか思ってるけど, これは何だか守れそうな気がする(ぉ でもクルマに乗る事自体が自殺みたいなもんなんだけど... あー,ここんとこ周囲で人が死んでないから, 割と「死」ってのは身近でない概念になりつつあるのかも. つっても,未だに「看護婦」とか恐いんですけど(ぉ
別題. 社会的に,「優越感を持つための行為」ってのが歓迎されないのはなぜだろうね.
別題. 自分が不幸かどうかは,自分より不幸な人を探す事で判る... とか思ったんだけど,「不幸」の定義が人によって違うだろうから,ちょっと無理そうだなぁ. あたしみたく「クルマ乗れないのは不幸」とか「金ないのは不幸」とか, 簡単で明快なルールの人ばかりだったらいいんだけど(ぉ あー,でも, 「金があって不幸」は有り得るけど,「金がなくて幸福」は有り得ない. 少なくとも「持続する幸福」は.