えい,昨日の続きだ.
つまり趣味ってのは根本的に「無駄」なのだ. 一般的な生活において全ての無駄が趣味と呼べる訳ではないが. 仮定として「価値を見出し継続的に欲しうる無駄」を「趣味」として定義しようか. 食事をしたって,必要以上に豪華ならばそれは無駄で, 無駄に豪華な食事を毎回続けるのは「食道楽」と呼ばれる趣味だ (趣味に名称があるかどうかはこの際は無関係).
さて,上記の定義にはやはり曖昧な点が残っている.「価値を見出し」ってトコだ. 価値感ってものが相対的基準でしかない以上, ここは最終的に「人それぞれ」にならざるを得ず, よって,ある「無駄」が趣味として行なわれているのか, それとも単に不節制で繰り返されるだけの「無駄」なのか, これは本人にしか判別できないってわけだ.
ってトコで話を具体的にすると, 例えばある家庭の夕食に費やしうる金額.
まず前提として, 夫婦が生きるためにはカロリーメイトとビタミン剤だけあればよいとしよう (これだと半年くらいで栄養失調になりそうな気もするが). で,毎日それだけを食べていたら,精神的苦痛はかなりのものだろう. そこで,多少の金額をこれに追加し,毎晩白米と「ごはんですよ」にしよう. 良い世の中で,この移行にかかる費用はたいしたものではないので, 平均的な生活を営む家庭なら, 毎日カロリーメイトな夕食を食べる苦痛とのトレードオフは分が良いはずだ.
でも結局毎日「ごはんですよ」では飽きがくる. たまには肉やら野菜やらを食べたくもなるってものだ. そこで,週に一回は「お肉の日」を作ろう. 週に一回では満足できない.二回にしよう...
こうして食事をアップグレードするのに使われた金額は, 生死という観点からは全て無駄なものだ. しかし,これを「ペイできる投資」として受け止めた訳だ,彼らは.
そう,「彼ら」は複数なんである. 夕食にかける費用が増加するにつれ,破局点が近付いてくる. 「彼ら」の許容する夕食コストのうち,低い方のコストを超える地点だ.
ここで,財布の入出管理権限がある側がコスト許容度の高い方である場合, 問題は生じにくい.無条件で高い夕食を食べる事になるからだ. 問題は低い方だった場合で,この場合それ以上のコスト増加はせず, 夕食コストはそこで安定する.
この,財布の入出管理権を持ちコスト許容度の低い方を仮に「妻」とし, その反対の方を「夫」としよう. それ以上のコストを夕食にかける場合(夫は継続的にこれを望んでいる), 妻から見るとこれは夫の「贅沢」であり,「趣味」であるから, この部分についてのコスト増加分は夫が負担すべき,となる.
一般的に行なわれているコスト分担方法は主にこれで, 基準コスト許容値 x に対し夫の求めるコスト許容値 y がある時は, ( y - x ) は夫の小遣いから減額される仕組みだ.
この点に問題がある. 計算方法以外に道義的な意味での問題もあるので面倒だが, この基準コスト許容値 x は何かの絶対的な数値ではない,という点だ. この点というのは,単に妻のコスト許容値である. そしてこのコスト許容値は先の定義通り妻による恣意的な値であり, その拠所は「価値観」という曖昧なものである. つまり妻はこれを自由に引き下げる事により夫の小遣いを自由に減額できるのである (もちろん無法に下げれば反発があるので限界はあるが).
つまり,公平というものが「皆が同じ条件である事」という定義で良ければ, 公平のためには基準コスト許容値を x でなく ( x + y ) / 2 とし, 小遣いの減額は ( y - x ) でなく ( y - x ) /2 でなければならない. ¥240 のビールを¥145の発泡酒にリプレースされてしまった夫は, 毎日 1本飲むのに月に¥1425 上乗せすべきである.